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『和敬清寂』その3

≪ヤマトグランドツアー≫が入り、ずいぶんと間が開いてしまいました。
グランドツアーは、大変充実して楽しい時間でした。
あの時代の私達の祖先は、なんと国際的なものの考え方ができている人たちだったのだろうかと、
感心し、感動しました。
あの時代から、今の私達が学ぶことは山のようにありそうです。
しかも、想像以上に色鮮やかな美しい時代だったことにも、おどきました。
現代の私達の美意識なんて、足元にも及ばない、ダイナミックな美学が存在していたのです。
・・・と、やまと文化のすごさは、又にして、やっと、
『和敬清寂』のお話の最後、【寂】についてです。

【寂】

この文字は、仏教で言うところの涅槃の境地というか、
この前も後もない“無”の境地を意味します。
音もなく、風のそよぎすらない、ひたすらの静けさ・・・
これが【寂】の文字の表す世界です。
決して寂しい(さみしい)わけではありません!

人との付き合い、おもてなしの中では、常にこの心境がです。
何があってもあわてない、微動だにしない!
常に、静かな心、静かな立ち居振る舞い・・・
これこそ、円滑で心が通じ合う人付き合いの極意であると、
利休は言いたいのです。
茶道の所作では、速過ぎて忙しないものはもちろんダメですが、
遅すぎるのもためらいがちに見えてよくない“手”といわれます。
宇宙のリズムにあわせ、逆らうことのないリズム・・・これが、美しい所作となる、
そう、躾けられたものです。
西洋のノーブルの間では、子供をしつけるとき、同じようなことを言います。
「レディは走ってはいけません。」と。
育ちがいい人は、何事もゆっくりしているものです。
つまり、レディと尊称のつくような身分の者は、どたばたしてはいけない、
慌てふためいた姿を人に見せてはいけない・・・ということです。
慌てふためくということは、“心構えや備えが無かった”“知らなかった”ということで、
本人の無教養さを露呈していることにほかなりません。
無教養であることは、ノーブルな人々の間で、一番嫌われることです。

皆様は、小学生の頃良く「廊下を走ってはいけません」と言われませんでしたか?
なぜ走ってはいけないのでしょうか?
白百合の授業の際に、この質問をすると、
いままで、そんな理由を考えたこともない子供達が、頭をひねって、
「決まりだから」「ぶつかると危ないから」「うるさいから」・・・と、答えます。
「誰もいなければ走ってもいいんじゃない?」「休み時間なら、うるさくしても大丈夫でしょ?」
「どうしてそんな決まりがあるの?」・・・と聞くと、答えが詰まってしまいます。
近頃は、代々この答えはこう・・・と、先輩諸氏からの伝達があるらしく、
『レディは走ってはいけないからー!』と、口を揃えて答えます。
かわいいですね。

全ての理由は【寂】だからです。
人と接する時の極意として、私たちが見落としがちなのが、この【寂】。
例えば、お客様がコーヒーカップを取り落としたとしましょう。
周囲の方々は、ワットばかりに立ち上がり、ハンカチやら手短なナプキンやらで
あわてて拭きにかかり、ご主人はタオルや雑巾をとりに走るでしょう。
よそのおうちの食卓では、基本的には、ハンカチを出すことは失礼に当たります。
しかも、当の本人は、すみませんと周囲にあやまりつづけ、事が収まっても、
それ以前の和やかな雰囲気も損なわれ、楽しい会話がナンだったか?
なんて状態になってしまうのが落ちです。
こんな時こそ【寂】!
粗相しても大丈夫な備えと、ことが起きたときに、周囲がことさらに取り立てて騒がないこと、
それが、失敗した方への心遣いであり、人付き合いの極意なのです。

単純なマニュアルどおりに行かないのが、おもてなしや社交、エチケットやマナーズです。
とっさの時こそ、その人柄・人格があらわになる時でもあります。
言うなれば、良い社交術・エチケット・などというものは、
全ては、本人の人柄にかかってくるということです。
中味を磨くことをせず、形ばかりに気を取られた社交やエチケットで、
心温まる交流や本当に豊かな時は得られないのです。
気がついたときからが、自分の躾の始まりです。
中味から自分を磨くことをして、皆様素敵な女性になりましょう!


コメント

「寂」は「静寂」の「寂」ですよね。

ちょっと違うかも知れませんが、
「こないだどんな女性が好きですか」というありきたりな話を友人としていた時に、
僕は「煮魚定食を綺麗に食べれない人は嫌だ」
という話をしました。別に焼魚でもいいのですが。

綺麗な女性の前に、
美しくない状態で魚の残骸が残っているという絵は、
何だか許せないのです。
綺麗に骨だけが整然と鎮座しているのを見ると、
何だか安心します。
絵的に「おさまりが良い」状態になっている、
と言うんですかね。

「過」もなく「疎」もなく「寂」であるということは、
そういう「おさまりの良さ」を感じさせる気がします。

私にとって「寂」を感じるのはやはり茶道の世界。お点前をしているとき、濃茶の客になっているとき、釜の松風の音、木々のそよぐ音、鳥のさえずり。日常あわただしく過ごしていると聞こえない音が、聞こえてきます。
そんなとき、背筋がピンとのびて、見えなかったことが見えてきます。友人とのおしゃべりも大切な時間。けれど「寂」の時間をもつことは「自分を見失わない事」めまぐるしく変わる現代は特に「寂」の時間の大切さを感じます。

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