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2006年10月23日

『和敬清寂』その2

前回の続きです。

『清』

読んで字の如し。
「清らか」であることは、社交の場でとても大切なポイントです。
私達はともすると、おもてなしの食卓やエチケットで、「美しい」「きれい」であることを
目指しがちですが、この「清らか」であることこそ第一!!としたのが茶道です。
“清浄なる水の文化”である日本人は、人との交わりを【一期一会】の覚悟で、
常に一番清らかな状態で・・・と考えました。
割り箸文化も、茶道の手さばきも全て、この「清らか」が基本の考えにあります。

この「清らか」・・・単に、見かけが清潔!心がきれい!・・・それだけではありません。
身の外も内も清らかであることは大前提。その上でさらに、人との関係・社交は「清らか」であれ!と利休は言っています。
利休の言う「清」の一字には「潔さ」という意味も含まれるのです。
秀吉との確執の末、利休は腹を切りました。
互いに譲れない一線があったのです。
社交とは、人と交わるとは、ただベタベタと馴れ合って、いい加減な時間を割くのではなく、
「一期一会」のつもりで行うもの。
その人のため、真実の為ならば「筋を通す」ということでしょう。
「筋を通す」のは、なまじの事ではありません。人の何倍もの気力と努力が必要です。
しかもその結果は全て自分で背負う覚悟も必要です。
西洋では、こうした心構えを『ノーブレス・オブリージュ』『プレイ・クリケット』という言葉で
表現しています。
「筋の通ったエチケット・マナー」・・・毅然とした態度は、小手先・見せ掛けを美しく見せる“立ち居振る舞い”より、ずっとずっと美しく感じられることでしょう。
それには、自分自身がしっかり地に(知に)足がついて、自己が確立していなくては行けませんね!

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2006年10月19日

和敬清寂

『和敬清寂』とは・・・?

千利休が残した、茶道の心得に【四規七則】というものがあります。
これは、お茶をたて人と向き合う【時】に、
どうしたらお互い「気分良く!」「楽しく!」「優雅に!」「豊かに!」過ごせるか・・・という、
いわゆるエチケット・マナーの全てを言い表したもの。

大前提となる四つの心構えが【四規】
『和敬静寂』の四つの漢字で表します。
そして、いわゆるマナーの基本が【七則】
利休は、当たり前であって、なかなか奥の深い言葉で、この七つを表現しています。
利休はすごい人ですね。
いわゆる社交の極意を、たったこれだけの言葉で言いのけてしまったのですから。

これは洋の東西を問わず、まさにエチケット。マナーの真髄をついた言葉だと思っています。
今回から、この【四規七則】のいっていることについて、少しずつお話しましょう。
  PS:管理人も、これで少しはブログが続くと、ほっとしていることでしょう!

まず【和】

人付き合いでいちばんたいせつなことは、【和】
平和であること。和やか(なごやか)であること。和気あいあいであること。
これは当然のことです。
が、人間付き合いは、気のあう人たちばかりとは限りません。
どんな時、どんな人とでも・・・!という厳しい条件付の【和】です。
しかも、これは、表面上ではいけません。
心のそこから・・・!という、さらに厳しい条件がつきます。
そのためには・・・
まず、相手に好意を持つこと。そして“おおような心”を持つこと。
受け入れられる世界の教養範囲が狭ければ、“誰に対しても好意を持つ”ことは難しくなります。
自分の周りに、人を拒絶する高い塀やバリアを持たないことです。
(これは無防備とは違いますよ!)
まあ、常に緊張しすぎず、ゆるい状態でいる・・・それがいいのかも知れませんね。

【敬】

近頃の教育現場や子供のすさんだニュースを聞くにつけ、
今の日本の育児にかけているのは、これではないかと思うことがあります。
この【敬】とは、“人に対する敬意・・・”なんて、簡単なことを言ってているのではありません。
自分に対する【敬意】・・・これこそ基本にあるべきです。
自分に対する【敬意】のない人間に、他人に対する【敬意】は払えません。
自分自身を大切に扱わない人間に、どうして他人を大切にできるでしょうか?
最近、CMで子供を抱きしめて!とか、愛して!といった言葉を耳にしますが、
そんなことをいわれて、では愛しましょう・・なんて、できるわけがありません。
愛は人にいわれて芽生えるものではありません。
愛していれば、自然とそれなりの行為も出来るでしょう。
愛と敬意はほぼ同じものと、私は思います。
自分が尊敬に値する人間であろうとすれば、
自分自身を大切にするでしょうし、愛するでしょう。
自分がこの世でかけがえのない愛される存在と思えば、
同じ存在である他人に対しても、やさしい心が芽生えるはず。
人に大して、敬意を払った態度を!・・・と、わかった風なことを言う前に、
まず、自分自身が、本当に尊敬できる人間かどうか考えて見ましょう。
まだまだ・・・と思ったら、それに向けて努力する。
立ち居振る舞いのその瞬間瞬間に、「これって、尊敬できるかしら?」と
考えて御覧なさい。
そうすれば、あなたの全ての言動は、おのずと『品性』あるものになるでしょう。
それが、利休が言うところの【敬】の極意!


つづきは又次回!

    


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